清水三徳氏(元城北小学校校長)の釣り人生を振り返ります
第2話 《釣り指南》
 私は今で言う「湾生」【第2次世界対戦終戦前まで、当時日本領であった台湾に住んでいた内地人(日本人)の総称】である。そのころの記憶はかすかであり、聞き伝えの話と混在してしまっているが、釣りを覚えたのがその地である事は確かである。
 台南市の「嘉義(チャイ−)」という所で生まれたらしく、父の仕事の関係で転居が多かった。土木関係の仕事をしていた父の都合で街にも田舎にも住んでいたが、ある時期から祖父母とも同居するようになり、祖父に釣りに連れて行って貰うようになった。釣り人生の開始はこのあたりであろう。
 ある時、山奥の大きな池に祖父が釣りに行き、私が弁当持ちで付いて行った。目的は「ロ−マ」という大きなウナギに似たものが狙いだったが、結局釣れず、フナやウナギを釣ったことを覚えている。中には1mぐらいのナマズもいたように記憶している。帰りもタヌキが出ると祖父が話す道を辿るのだが、往復3時間は子供にとって足腰を鍛えるには充分すぎるものであった。それでも付いていったのだから、子供心に「釣り」は魅力的なものであったのだろう。
 このように私の釣りの手ほどきは祖父であり、川釣りの基本から教えて貰ったものである。川の魚と言えば(石斑魚:ウグイ)、広島では「イダ」と言うが、コイ科の仲間で40〜50cmになる。ミャク釣り(瀬釣り)と言って、川の土手からエサを投入して、流れに沿って底を流すやり方だが、底に掛からないようになるまでにはかなりの日数と根気が必要だ。次いで追河(オイカワ)、ハヤと呼ぶことが多いが、最もポピュラ−な魚である。広島の太田川でもよく釣ったものである。次に覚えたのが鮒(フナ)である。
 私が鮒釣りを覚えたのは小学生の時である。鮒釣りは四季を通じて楽しむことが出来た。
 フナのいそうな渕(流れが淀んで川底が深くなっている所)にエサ(ミミズや赤虫、川ゴカイ等)を付けて沈める、現代の投げ釣りの方法である。人によっては4〜5本の竿を出している場面にも出会ったが、私は何時も1本しか使わなかった。
 初めて釣ったフナを喜び勇んで家に持ち帰ったが、師匠である祖父に、「食べ無いのであれば川に戻してやりなさい。命を粗末にしてはならないよ。」と諭された。今に繋がる釣りの基本中の基本、道徳とも言える教えであった。
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